猪瀬優理・龍谷大学社会学部教授

猪瀬と申します。私自身は宗教者ではなく現場を持ってないので、お話しする対象からは距離のあるお話になってしまうかとは思うのですが、よろしくお願いいたします。

ワカモノが求める『シンシュウキョウ』とは?(仮)

「ワカモノが求める『シンシュウキョウ』とは?(仮)」という、「今日、本番なのにカッコ仮ってなんだよ」っていうタイトルになっています。

「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」

基本的には先ほど石橋先生がお話くださったことと同じようなことを皆さんと一緒に考えていければと思っています。「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」というのがこのシンポジウムの問いなのですが、新宗教といっても、今日は事例として創価学会を取り上げるのみなので、そんなに広く語れるわけではありません。ただ、新宗教というと、新しくその社会の変化に合わせて生まれてくる、あるいは受け入れられていく、あるいは拡大していくという面があると思うので、新宗教には社会の状況を映す鏡のような面があると考えています。そんな中で、石橋先生からもありましたけれども、「では若者とは誰なのか」、また「宗教とはなにか」といったところについて、私の話でもそれを別に定めるわけではないんですけど、その辺をあらためてちょっと考えてみたらどうか、という話をしたいと思います。

時代状況を映す鏡としての(無)宗教(説)

時代の状況を映す鏡としての宗教という点に関しては、

藤原聖子編『日本人無宗教説』

この『日本人無宗教説』という本がまさにその話をされていた、ということに改めて気づかされました。

第5章 1980~1990年代

その中でも特に第5章、和田理恵さんが担当されたところに注目したいと思います。

はじめに

この本の「はじめに」では、この時代の状況を映す鏡として、宗教あるいは無宗教が参照点として用いられてきたと指摘されています。この本は、コロナ禍の制限のある中で何か研究できないかっていうことで、東京大学の大学院生・学部生を中心に取り組まれた研究だそうです。大手新聞のデータベースを資料としつつ、その中から記事の背景を論者の視点から補足しながら、一体その「日本人は無宗教だ」という説がどんなふうにこの当時の社会問題や論者の視点と関わりながら論じられてきたのかをまとめておられます。大変興味深い本で、良い本だなぁと思います。

第5章 1980~1990年代

その中で、特に和田理恵さんが担当されている第5章では、若者が登場する記事に着目されています。もちろん、それ以外の話も沢山あります。新宗教の話で言えば、1995年の阪神淡路大震災の時に宗教団体も救援活動の記事の中で、創価学会とか立正佼成会を筆頭に、新宗教集団が伝統的な仏教教団と同様に、社会活動するアクターとして取り上げられてたんだっていうようなことも取り上げられていて興味深いです(ただし、直後にオウム真理教事件があり、その流れは断ち切られることも論じられている)。その中で若者については、「霊を信じる若者」という、先ほど石橋先生も「若者という言葉を使うときは、自分たちとは分けて違う存在として扱おうとする視点があるんじゃないか」という主旨のことをおっしゃっていましたが、まさに新聞記事でも、社会の中でエスタブリッシュされた立場にある人が自分たちとは違うものとして、「若者」を切り離していく視点が見出されています。

おわりに

「おわりに」では、「なぜ日本人無宗教説が唱えられるか」を確認しています。今日の話に関係あるところとして、「どの説も唱える人は、直接の利害関係者であってもなくても、何らかの方向に日本を牽引したい人、何か警鐘を鳴らしたい人だった」というところに着目したいと思います。つまり、「何か言うための参照点として宗教が利用されている」ということです。この本では、何を言うために宗教という言葉が使われているのかを確認しています。

「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」

「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」という問いも、問題意識があるからこそ立てられている問いです。石橋先生、中條先生のご発表でもあったように、教会なり、お寺なりをどうやってこの後も続けていけるのかという課題です。若者が教団を引き継がないんであれば守れないじゃないか、どうしたらいいんだという問題意識です。しかし、もし引き継がれないんであれば、引き継がれない理由がやっぱりあるとは思うんですね。社会が変わってきたからとか、今必要とされてないからとか。では、なぜ宗教性が涵養される必要があるのか。 必要があれば求めるのですから、若者自身、若者とくくられてしまっている人たち自身が何を求めているのか、ということが問いとしても出てくるのではないでしょうか。私の発表ではこの点を考えてみたいと思います。

宗教的伝達に関する先行研究(北米中心)を参照する

日本では大規模な若者の宗教性や宗教的伝達に関する調査は残念ながらあまりなされていません。このような大規模調査がなされているところとしてアメリカ合衆国における調査がありますので、いくつか参照していきたいなぁと思っています。

家族と信仰

『家族と信仰』は、35年間にわたる追跡調査です。追跡調査した後に、継続的に調査に参加していた家族にインタビュー調査もしています。宗教的子育てについて質的にも量的にも確認されていますが、宗教的伝達はかなり成功しているという結果です。面白いのは、無宗教、宗教的でないことも親から子に受け継がれているとみる観点ですね。宗教二世の問題にも通じますが、外部の集団との境界性が高い宗教集団は、子にも強く親の信仰を継がせようとするので、信仰継承率が高い傾向があることが指摘されています。

魂の探究:アメリカの10代たちの宗教的・スピリチュアルな生活

こちらの本は直接信仰継承の話ではありませんが、若者のスピリチュアリティ、宗教性について研究しているもので、2000年代初頭のアメリカの若者たちが、宗教を自分の人生をより良くするための手段として自分の人生のために使うという考え方が浸透していることを指摘しています。

宗教的子育て:現代アメリカにおける信仰と価値の伝達

こちらは、親による宗教的社会化にかんする研究です。カソリック、プロテスタントなど多様な宗教伝統を持つ親たちに調査していますが、これらの親が宗教の違いを超えて共通したアプローチを使って子どもたちへの宗教的社会化を行っていることを指摘しています。先ほどの若者を対象とした調査で得られた知見のように、親も子どもがより良く幸せな人生を送れるように宗教を使うという発想で宗教を捉えていることを指摘しています。

ユートピアからの脱出:カルトの中で育ち、脱出し、やり直す

最後の本は、カルト批判の立場を明確にしている研究です。カルトと言われる団体から自発的に出た人にインタビューをして、カルトと呼ばれる問題のある集団と健全と言える集団との違いを対比しています。詳細は割愛しますが、カルト的といわれる集団は、構成員に対しての要求が非常に高い、バウンダリーも非常に強いことが指摘されています。要求の高さ、バウンダリーの強さは、構成員に対するコントロールを強めることにつながります。組織維持・運営のために構成員を使う側面が強い集団組織といえます。

現代アメリカ社会における「健全な宗教的社会化」

現代アメリカ社会における調査研究の知見を合わせてみると、「健全な」見方としては、宗教的社会化、宗教的伝達の第一の担い手は親であって、教団は二次的補佐的なものとなります。人生の目的は幸福になることであり、親は子を幸福に導く役割を持つ。そのために宗教を利用する。幸せになるための宗教選択は、子の自由意志で選ぶことが重要です。先ほどの石橋先生のお話しで、若者は自身の困り事を解決したら教会を離れてしまうとありましたが、その可能性もありえます。そうすると、教団にとっては都合が悪いところがあります。それを阻止するために要求の高い集団のように、教団構成員を締め付けて教団に留めさせていく方法を取ると、そこで教団の「健全さ」も問われていくことになります。難しいバランスが問われる問題なのだろうと思います。

組織における子どもと信仰継承

これらの観点を参考にしながら、創価学会の事例も見たいと思います。

信仰はどのように継承されるか

2011年の本ですが、私の『信仰はどのように継承されるか』という本が、創価学会における信仰継承を扱っているものなので、こちらをもとに話します。

創価学会組織図

創価学会組織ではこちらにあるように、未来部という、信者の子どもさんを中心として、未成年のお子さん、小学校から高校生までが入る部署があります。

未来部希望ネット

具体的に言うと、少年少女部、中等部、それから高等部があります。その他に少年少女合唱団など、より高いコミットメントが求められる場所もあります。

未来部向けの書籍や御書講義も

それから書籍なんかも、大人向けじゃなくて、子ども向けの本があり、学ぶ機会があります。

未来部(高等部)は1964年6月7日に結成

2024年と2025年は未来部にとって節目の年で、高等部は1964年に結成されているので、2024年が結成60周年。中等部、少年少女部は1965年に作られたので、2025年が結成60周年です。聖教新聞の一面では、「この指針のままに、未来部員の自主性・主体性を伸ばしていきたいと思います」と書かれています。「この指針」とは、池田大作氏の未来部育成に携わる側の心構えのことであり、「大切なのは触発だ」、未来部のお世話をしている大人の会員の役割は、未来部の心を触発し、子どもたちの成長を「命を削る思いで祈ることだ」という方針です。

アンケート結果

このように近年、未来部へ視線を向けることを意識的にされています。昨年に未来座談会という子ども中心の座談会を開いていて、その際に、子どもさんたちに実際に意見を聞く企画が機関誌の聖教新聞でありました。アンケート結果は、上位は「池田先生の凄さがわかる話が聞きたい」とか、「信心ってすごいなって話が聞きたい」という、本気か忖度かわからない内容が載っています。それ以下には、「未来部が楽しめるコーナーを増やしてほしい」とか、担当幹部挨拶っていうのが座談会の最後にあるんですけど、「担当幹部挨拶を未来部が興味を持てるものにしてほしい」、「参加している人たちのことをもっと知るコーナーが欲しい」、「テーマを決めてグループトークの時間を作ってほしい」、「未来部員の意見や声を聞いてほしい」という意見が続きます。先ほどの石橋先生の話でも、若者のことだけでなく教会本体のことに関わりたいと若者が希望した、という話がありましたけど、それに通じる要望ですね。要するに、自分たちも信者仲間というか、教団組織の人たちとのつながり、あるいは自分たちがここ居ることを確認したい、という要望です。あらかじめ大人が決めた枠組みとは違うところから自分たちの存在を示そうとしている声が、こんなところでも聞こえてくるのかなと思いました。

九州アンケート結果

九州でもアンケートがなされています。代表メンバーの声で、特に多かった意見には星印がついてるということだったので、そこを少し取り上げてみると。やっぱり「未来部中心の座談会がいい」とか、「部活とか忙しいんですよね」とか、「大人たちが使っている言葉難しいからわかるように話して」とか、あと、「一方通行にならないのがいいんじゃないか」とか。こんな意見が聞かれています。

創価学会組織の次世代育成について

創価学会組織の次世代育成についてまとめますと教団が提示する信仰継承モデルとしては、教団組織の維持存続のために後継者になってほしい、活動者になって欲しい、というものです。そのために「学会っ子」モデルがあります。今日は創価学園の話あんまりしてないのですが、創価学園に行く子は創価学園で、未来部で活動する子は未来部で、池田先生を師匠とした弟子となることが目指されます。必ずしも絶え間なく継続して居続けなければいけないっていうことではなくて、いろいろ紆余曲折を経た後、また戻ってくるパターンは教団が提示するモデルにもみられますが、一旦離れてもいつか戻って創価学会で幸せになってほしい、創価学会が一番いい宗教だっていうのはその理念としては明確にあります。信仰を継承しないと子供が成長したと親は納得しきれない、というところがある。それもありながらも、先ほど見たように、子どもの声も聞こうとしている姿勢は見えるかなと思います。

信仰継承率

2011年の本で示したものですが、創価学会における信仰継承率を見ると6割強、あるいは7割弱という数字が調査結果からは出ています。これは活動的な信者の会員の方に調査票を配ったので、活動的な会員の方の信仰継承率ってことになります。名ばかりの会員も含めた調査ができればもっと低くなると思います。だから「継承した/しない」ということも、一体誰を対象に考えるかでだいぶん変わってくるところだということです。簡単に数値化できることじゃないなとは思っています。

信仰継承のパターン

信仰継承のパターンはいろいろあります。ずっと途切れなく続けていく人もいれば、一回離れて戻ってくる人もいる。仕事が忙しくなったり、勉強の方に気を取られたりすれば宗教活動からは足が遠のくのは自然なことなので、一時期離れる方も多いです。でも、何か困ったことがあった時、あるいは落ち着いて、例えば自分が子育てする時に、戻ってくる傾向はあるようです。離れたまま戻ってこないで、この教団は私に合わないとか、おかしいとかいうことで、信仰継承しないっていうことも、もちろんあります。それぞれに事情はありますので、単純化はできませんが、大まかに言えばこの3つです。

パターン1 継続的継承

継続的に継承していく場合も、続ける理由は様々です。悩みがあったら解決できる、自分が生きていく上で人生の指針が得られる、家族がずっと続けているから自分の信仰はあってもなくても、家族のためには続けなきゃいけない。いろんなパターンがあり得ます。

パターン2 離脱後の信仰継承

一旦離れて戻ってくる場合も、戻り方にはパターンがあります。創価学会活動を頑張ってする人もいれば、信仰はするけど活動はやりませんという人もいます。信仰はあるけど、家でお題目はあげるけど、御書は読むけど、活動はしませんという人もいる。いろんなパターンがあり得ます。

パターン3 信仰継承をしない場合

当然、信仰継承しないという場合も、多様なパターンがありえます。創価学会に対して批判的ではないけれども、自分にとっては必要ない、自分には合わない、だから活動しないし、信仰も持ってないからお題目もあげない、という場合もある。あるいは、家族が創価学会員なので、自分が正式に脱会すると、いろいろ問題もあるから、活動も唱題もしないけれども教団に居続けるという人もいる。もはや創価学会員ではないので正式に脱会します、という場合もある。正式に脱会した後も、創価学会に対して公に反対する場合もあればしない場合もある。さまざまなあり方がありえます。

教団・親の期待と「内心の問題」

今日は、宗教性とは何かということを中心テーマにできなかったので、チャットにあった御質問に答えられないのですけれども、関連のあることを少し話します。創価学会をやめた方々にインタビューしていく中で、また、エホバの証人から離れた方が主に回答している調査の自由記述を読んでいると、信仰している親から、親の宗教を継ぐ、宗教組織の中にずっと居続けることを期待されてきたことの苦しさが語られていることに気づきます。宗教的な親にとっては子どもが自分の宗教的伝統を受け継がないことは、大変ショックで辛いことになります。子どもは、親の期待が明確ではっきりしていて強いほどそれを受け取っています。子どもは、本心がその期待とは違っていると言うことはなかなかできません。教団を離れることで親を悲しませたくないという言葉は、エホバの証人の調査でも、創価学会で辞めた方への聞き取りでも、辞めきれなかった理由として語られます。自分の本心と違うことを要求され続けていると、自分の本心を言うことが抑制されてしまいます。この状態をある方は「自分の内心にうまくアクセスできない」と表現されました。そういった状況が生まれると、子どもたちはその宗教的な環境の中で、信仰継承が期待される枠組みが強いほど、自分自身の内心を言語化することに困難を抱えることになります。つまり、言語化できない、言葉にならない問題、困難、思い、そういったものがある可能性があるわけです。私のように聞き取り調査をしている人間としては、調査の限界があることも感じています。宗教の現場にいる方々にとっても同様の課題があるかもしれません。

まとめ

「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」

最後のまとめです。「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」という問いについては、宗教的伝達の場は子育ての場であり、親が主体的な担い手である、という答えになります。ただ、教団の組織の影響は、特に宗教的伝統を持つ親にとっては、あります。場合によっては、その影響はかなり強烈になる場合もある。組織の側も信仰継承を促進するために戦略的に対応していくところは当然ある。それは、いい悪いじゃなく、あってしかるべきことなのだろうと思います。ただ、内心の問題のことを考えてみると、親の持つ信仰とか親の所属する宗教団体へ子ども・若者が所属し続けること自体を、「若者の宗教性が涵養された」と捉えていいのか、というところはあるかなと思います。信仰はないんだけども、親を悲しませたくないとか、親には従わざるを得ないといった理由で継続している場合、そこでは何が涵養されているのか。それが「宗教性」なのかどうかは問われるところではないでしょうか。

ワカモノ=龍谷大学受講生、が求めるシンシュウキョウ=現代・未来の宗教

私自身は「ワカモノが求めるシンシュウキョウ」が何かを探れてはいないので、参考までのお話をします。今日の(仮)タイトルに関係するのですが、今、龍谷大学で担当している「宗教社会学」という授業の最後に「シンシュウキョウを考える」というテーマでグループワークをしています。まず「今の社会ってどんな特徴あるか」を考えてもらいます。どんな人間関係の特徴があるか、価値観が支配してるか、といったことです。次に、「これから社会が変わっていくとしたら、どんな方向性があり得るか」も考えてもらいます。最後に、「現在の社会のあり方と、これから変わっていく社会の方向性をふまえると、これからの、あるいは今の社会で人々を救える、あるいは人々が求めるシンシュウキョウってどんなものになるだろうか」を考えてもらうグループワークです。学生から出てきたシンシュウキョウの特徴は、安心できる、誰もが認められる、多様性が尊重される、そんなことです。「社会に沿うのではなくて、一人ひとりの心に寄り添うものである」という言葉は興味深く思いました。精神、心の支え、コミュニケーションのあり方が問える。こんなことを書いてくれています。つまり、若者たちが求めているものは、自分と向き合う機会が与えられる、そういう宗教のようです。何が宗教性かを定義せずに話してきましたが、内心の問題にアクセスするためには、この辺のところが大事なことになるのかなと思います。

宗教集団における「子ども」「若者」

先ほど石橋先生が話されたことに重なりますが、教団の次世代の担い手として期待することは、一直線の期待の仕方になってしまう面があるかなと思います。そうすると期待どおりに動かないと「期待から外れた」という受けとめになってしまいます。そうではなくて、今ここに生きているそれぞれの個性とか特性をもった一人ひとりが、その人らしく、その人の力を発揮できるにはどうしたらいいのか、という視点でみていくことも大事だろうと思います。もちろん、石橋先生もおっしゃっていたように、そのような姿勢で組織が維持できるのか、という問題もあります。この点は、現実的なところとしてはバランスを取って考えていかねばならないものなのかもしれません。とはいえ、これからの先ほどの創価学会の未来部の方々の声とか学生の声を聞いてみれば、やはり一人ひとりを尊重していくことは大事になるかなというふうに思っています。

ご清聴ありがとうございました

以上でございます。ありがとうございました。

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