報告 シンポジウム「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」
2025.06.04
立教大学の丹羽と申します。今日は司会を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。私の方からは冒頭、テーマと経緯ということで、今回のシンポジウムの経緯、若干の補足というところで最初にお話しさせていただきます。 庭野平和財団公開シンポジウムですけども、これまでも現代日本社会と宗教について、さまざまなテーマで何度か行われてきているものです。今回のシンポジウムは、2023年度、令和5年度より國學院大学の石井研士先生が中心となって行なってきた研究会の共通テーマでもある「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」のまとめとして開催されるものです。最初に少し経緯をお話しさせてください。 令和5年度の社会調査研究会は、若い世代の宗教性、特に社会構造上の変化や家族の変化などを受けて、生活に根ざした宗教がある意味で弱くなっていく、解体していく時に、お寺や神社、教会の後継者、それを取り巻く地域社会、総代さん、氏子さん、檀家さんの継承がどうなっていくのか。もちろんこれは新宗教も含めてですけども、広い意味で宗教、若者の宗教性の現状というものを問題意識・テーマとして研究会をこれまで開催してきました。ですが、石井先生のご病気によって研究会が一時休止となったという経緯がございます。今年度、2024年度の秋から再開し、本日に至ることができました。 今回司会を務める私とコメンテーターの大正大学の寺田先生ですけども、社会調査を長く指導されていた石井先生が体調上のご理由によって難しくなったことを受けて、研究会のファシリテーターを、今年度から担わせていただいています。寺田先生は令和3年度のシンポジウム、「2030年の宗教:コロナ禍の中で」ですね、そして令和4年度シンポジウム「家族と宗教」にもご登壇されています。私も後者の「家族と宗教」の回には、登壇者としてご一緒させていただいたという経緯がございます。その時に石井先生がシンポジウムの開始時にフレンドリーなシンポジウムにしましょうとおっしゃっていたのをすごく覚えています。本日のシンポジウムもフレンドリーに、そして、参加してくださった皆様にとっても学びと気づきの多い機会になればいいなと思います。
ここからはシンポジウムの趣旨を簡単に紹介させてください。ちょっとだけ画面の共有をしてみます。チラシが今画面表示されているかと思います。少し読み上げますが、近年、人口減少は過疎化、限界集落の問題となって誰の目にも明らかとなり、単身世帯の増加は伝統的な家族構造を変える結果となり、こうした変化は、従来の日本における宗教の枠組みを揺るがし宗教団体の後継者のあり方にも大きな影響を与えているのではないでしょうか。宗教に対して自覚的意識的ではない若者も、家庭や地域での年中行事や通過儀礼がどんどんと変わっていく中で、どこでこういった宗教性というものを身につけていくのだろうかというものが、研究会、そしてこのシンポジウムの趣旨となります。 各登壇者の先生方には、この後30分のご報告、また、休憩を挟み、パネルディスカッションと質疑応答を行わせていただきます。先ほど廣中様からもありましたが、質疑応答は随時チャットで受付を行います。チャットに上げていただいて大丈夫です。質疑応答の時間は最後の時間にありますので、そこでお答えをいただく形になろうかと思います。 簡単に私の方から、登壇者の先生方のプロフィールを紹介します。 最初にご登壇していただく中條先生は、仏教寺院の後継者問題、また過疎地域のお寺のあり方を長く研究されてきた方でもあります。『月刊住職』でも過疎地域寺院に関する連載などもなされていました。 次に登壇いただく石橋先生は、札幌バプテスト教会の牧師さんでいらっしゃいます。キリスト教団における若い信者の減少と後継者不在、あるいは、若者と教会の今日的なありようというものをご報告いただきます。 猪瀬先生からは、創価学会における信仰継承の問題とともに、海外の研究動向などについてもお話をいただく予定です。 さて、簡単に私の方から石井先生が研究会でご報告された内容についても簡単に触れさせていただきたいと思います。石井先生は、2016年に刊行された神社本庁総合研究所の神社・神職に関する実態報告書、また、2000年代から各府県の神社庁と石井先生がなされていた、神社における後継者の実態調査などを中心にご報告をいただきました。仏教関係の現状に関する調査研究というものはここ数年非常に増えてきているんですけども、神社界の実体的にデータというものは非常に限られています。そういった意味でも非常に貴重な調査報告だったかと思います。神社界の後継者問題については、この後お話をいただく中條先生の仏教界とも似た状況というものがあります。 まず、神社界の後継者問題と後継者不在問題としては、神社・神職に関する実態調査報告書によると、後継者が決まっていない神社は3分の1にも上ります。その理由として最多なのが「後継者となる子弟が全くいない」と。神社界も少子化なわけです。かつて神社界はどちらかというと、神職家族の方、子だくさんのイメージが強かった、実際そうだともおっしゃられていましたけども。やはり少子化がある。 さらに、今、経済的な安定の問題などもあります。また、この調査報告書ですけども、非常に面白いポイントがありました。実際の後継者世代にも意識というものを聞いているんですね。それによると、後継者世代の迷いというものもデータとして現れてもいました。自分の代でお宮をなくしていいのかといった、そういったプレッシャーですね。地域性もやはり、過疎地域ほど困難であったり。こういったものから、若者が聖職につくのを妨げているものは何だろうか、ということで、今回の研究会の基盤となるようなご報告をいただいております。 さて、ここからは各先生のご報告内容に移らせていただきたいと思います。最初に中條先生より仏教界のお話をいただきたいと思います。中條先生よろしくお願いいたします。
本報告は,発表者の専門である地理学の立場から,寺院を運営する住職とその家族(以下,寺族)をとりまく社会経済的環境に着目しながら住職後継者の去就を報告した。事例として取り上げたのは日蓮宗で調査を実施した過疎地域寺院で,広島県備北地域,石川県能登地域,山梨県早川地域である。過疎地域寺院は住職後継者が得られずに無居住となっている寺院が多いため,住職後継者の去就を明らかにするために適した対象と考えられる。 過疎地域寺院では地域住民の大都市圏への転出により,檀家家族の空間的分散居住が生じている。広島県備北地域や石川県能登地域にみるように,檀家が実質的な減少傾向にあり,住職後継者は学齢期に僧侶資格を得ることなく寺院以外の職に就くなど,「檀家の寺離れ」の顕在化よりも先んじて「寺族の寺離れ」を惹起していた。そのため,高齢の住職と寺庭婦人によって寺院が護持され,それがやがて無居住になっていく実態を報告した。一方,山梨県早川地域にみるように,無居住寺院の代務住職も過疎地域寺院の住職であり,自己の後継者が得られないまま無住職になる寺院が増加していた。廃村に至る集落の寺院では,建造物の損傷も著しく廃寺手続きに入った寺院もあった。過疎地域寺院の後継者の去就が,寺院の統廃合に至る現代の仏教寺院の再編成の起因になっていることを示唆した。
コロナ禍になって、教会に人を招き入れることができなくなり、自分たちが外に出て行き出会っていくしかなくなった。そのことで、教会の企画する集会に「来たい」と思う若者を教会に集めようという発想から、さまざまな形で集ってくる若者の存在そのものを喜ぼうという発想へと転換を迫られているように感じる。 どうしても、「この宗教組織をこのままの状態で引き継いでほしい」という思いが先立つと、そのために「こんな若者が来ると困る」とか「こんな若者には来てほしい」などと、若者に線引きしてしまう。そして、実際に来てくれている目の前の若者を“若者”としてカウントしないというようなことすら起こってしまう。でも、実際に“若者”と呼ばれる人たちがそこに集い始めれば、やがてそこに集った若者たちが、その若者たちのやり方で、組織を引き継いでいくことになるはずだ。 ただし、それで本当に組織が成り立っていくのかということについては疑問符が残る。それでも、その若者たちのことを信じていくことからしか、継承はそもそも始まっていくはずはない。「自分の教会は、そんな覚悟をしていけるだろうか」と問われている。
「(無)宗教」と「若者」のかかわりは、社会の変化を捉えようとする参照点の一つとして捉えることができる(和田理恵(2023)「第5章「無宗教じゃないなら何?」から「私、宗教には関係ありません」に―1980~90年代」藤原聖子編『日本人無宗教説』筑摩書房)。では、若者自身が宗教に求めることとは何だろうか。米国の宗教的子育てに関する調査によると親は子を幸福に導く役割を担うため宗教を利用している。若者自身も自分の内面を見つめる機会を宗教に求めており、そのためには子の自由意志で宗教を選ぶことが重要である。それは組織の不安定化につながるが、組織維持のために強制すると子どもが自分の内心を把握することが困難になる。組織維持のために教団が取る方法が問われている。創価学会は未来部(子どもが所属する組織)に目を向け、近年は子どもたちの声を聞く姿勢を意識している。親や教団からの強制が働いている可能性がある場合、親が所属する教団に子ども・若者が所属し続けることを「若者の宗教性の涵養」みなせるだろうか。教団の次世代の担い手として組織視点で若者に期待するだけでなく、一人ひとりの子ども・若者を尊重する姿勢が大人たちに求められる。
はい。ではお時間になりましたので、再開をしたいと思います。本日たくさんの方にもご参加いただいています。それだけこのテーマが非常に関心の高いテーマだったんだろうなと思います。まず最初にパネルディスカッションで、寺田先生から先生方へのコメントをいただいて、それのリプライという形で進めさせていただきます。寺田先生お願いいたします。
よろしくお願いいたします。大正大学の寺田と申します。私事で恐縮ですが、中咽頭がんの治療で昨年9月から先月半ばまで本務校を休職させて頂いてました。病み上がりで、今までのように声が出ないかもしれませんが、ご容赦いただければ幸いです。 直接伺ったわけではないのですが、石井研士先生が今回のテーを企画された背景には、2022年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件。山上徹也容疑者の境遇から注目を集めることになったいわゆる宗教二世問題があったんだと思います。ただそれを直截に論じるよりは、もう少し冷静に、というか俯瞰的に、少し距離を置きながら落ち着いた目で考えたい、そういう意図があられたんじゃないかと推察してます。今日の3先生のご発表は、ヴァラエティに富んでいましたが、それぞれ異なる立場、異なるアプローチからテーマに迫る非常に充実したご発題でした。学ぶこと、考えさせられることがたくさんありました。 以下、簡単にコメントさせて頂きます。まず、中條先生のご発表ですが、石井先生の神社・神職の研究とも関連する内容でした。「若者の宗教性はどう涵養されるのか」「どこで、誰に」というテーマですけど、「どこで」はお寺、「誰に」は仏教者。「若者の宗教性」を涵養する土台ないし触媒となる寺院や仏教者をどのように再生産させていけるのか。再生産のためには、そもそも暮らしていけなきゃお話にならないわけですから、生活基盤としての寺院経営の持続可能性が鍵になります。ご専門が地理学ということもあり、手堅いデータに基づいた説得力のあるご発表でした。 石井先生の2016年の報告書(『神社・神職に関する実態調査報告書』)では、神社の収入だけで暮らしていると回答した神職は23.18%(1,436/6,196)、本務社からの収入のみで暮らしているとの回答は15.56%(1,026/6,196)でした。圧倒的に第二種兼業神職が多いんです。神社界と比べたら仏教界の方が恵まれていて、兼務数も神社ほど多くありません。しかし程度の差はあれ、両者は同じ構造にあるわけです。地方ないし過疎地では、安定した仕事は限られています。兼業しながらでなければ維持できないお寺が多いのが実状だと思いますが、公務員の兼業・副業は原則禁止されています。かつては、おおらかな時代もあったわけですが、現状、地方公共団体の任命権者の許可がなければ、兼業・副業は地方公務員法(38条)違反となります。平日、教員として働いたり、役場に勤めたりしてお寺を支えてこられた仏教者はかなりの数いたと思われますが、それができなくなった。これが地方寺院の存立を脅かす一つの要因となっていると私は思ってます。 ここで質問なんですが、近年、いくつかの地方公共団体では、公務員の兼業・副業を弾力的に認めていこうという動きが見られます。仏教界全体として、地方在住の僧侶の兼業・副業を後押ししていこうという動きは見られるのか。全国各地に遍在する寺院は、地域社会において一定の公共的役割を担ってきた歴史があると思うんです。個々の寺院・僧侶に対応を丸投げするのではなく、宗派・宗門として地域社会における寺院の公益性や貢献をアピールし、過疎地の僧侶が暮らしていける土台作りを後押しする。そういうロビー活動をどのくらいやられているのか。宗派からの財政支援によって地方寺院を支えるのは現実的に難しいと思うのですが、国や自治体に僧侶の兼業・副業を認めてもらえるよう働きかけることはできると思うんです。これをお聞きしてみたいと思います。 この質問は、仏教者でもあられる中條先生に対するものでしたが、もう一つは、地理学者としての中條先生に対する質問です。社会学というか宗教社会学でも、地域社会と宗教の関係性を探る調査研究の蓄積があります。そこでは、村落の社会構造と檀家組織・連・講・宮座などといった宗教組織がどのように吻合(マッチング)しているか注視します。名高い森岡清美先生の研究では、村落構造と宗教組織が重なっていると様々な祭礼や年中行事は残りやすく、一方で、周辺的な寺(村落のほとんどの住民が加入していない村落構造との連関が希薄な寺)の祭礼や行事は頽落しやすい。こういう知見が提出されています。今回、ご紹介頂いた事例ですが、それぞれの地域においてどのような立ち位置にあるのか。当該地域においてマジョリティのお寺なのか、マイノリティのお寺なのか。その辺の情報を補足して頂ければありがたいです。 続いて石橋先生のご発表です。石橋先生は、宗教性の涵養を担っておられる現場から、当事者目線で、生々しい事例と血肉の通った提言をお話しくださいました。私どもが前提としている社会学は、言ってみれば下世話な学問です。組織や運動の構成員はどのように維持されるか、いかにして担い手の再生産は可能になるか。こういう観点から宗教を眺めています。しかし今回のご発表は、そのような発想、ものの見方自体を問い直す、いわば根底的な問いを投げかける内容でした。そういう意味で、私のような立場の人間のキャパシティを超えている部分がありました。ハッとさせられた部分が大きかったということです。しかし、どのような表現が適切かわからないのですが、それで大丈夫でしょうか、という疑問も併せて浮かんできました。 これはあくまで一般論というか、ものの目安のような話ですが、神社でしたら800くらいの氏子さん、お寺だったら150~200くらいの檀家さんがいないと生活はしんどい。もちろん、地域性や階層性、不動産収入の有無は大きいですが、だいたい目安として、このくらいの規模の担い手がいないと、子育て世代の家庭を維持していくことは(神職・僧侶とも)むずかしい現実があると聞きます。一方、キリスト教ですが、日本のクリスチャン人口を単純に割るとだいたい50人以下のメンバーで一つの教会を支えている計算になると思います。平たく言うと、一人当りの負担が神社やお寺より大きい。かなりの額のドネーションで教会を支えておられるメンバーが結構な割合でいらっしゃる。そういう担い手がいてくださってはじめて困ってる人、疲れている人、不安定な居場所がない若者たちにリーチすることができる。下世話な発想で恐縮ですが、そういう側面があると思うんです。もちろん、教会の財政収支のみを考えて視野狭窄になることは避けねばなりませんが、献金・奉仕してくれる人材、将来の担い手へ向けたアピール、宣教、つなぎ止めも非常に重要だと思うんです。日本は、ただでさえ若者が減っているのに、雇用流動化によって格差が拡大・固定化する傾向があります。教会を支えてくれる有為な人材を確保・育成していくことはとても難しい時代だと思うのですが、こういった問題についてどのようにお考えでしょうか。不躾な質問で恐縮ですけど、よろしくお願い致します。 最後に猪瀬先生のご発表です。海外の研究にも目配せしながら、ご自身のフィールドから析出された知見をわかりやすく列挙して頂いたご発表でした。石橋先生へのコメントと被ってしまうところがあるのですが、ご容赦ください。猪瀬先生が紹介してくださったヤーンヤ・ラーリッチ(Janja Lalich)さんとカーラ・マクラーレン(Karla McLaren)さんの議論。健全な宗教的社会化は(教団ではなく)親が第一の担い手であり、寛容な態度を前提に、よりよく生きるための資源として子育てに用いることが重要だという指摘ですが、なるほど…と思いながら伺ってました。「教団の健全さ」という言葉が使われていましたが、この議論の前提として、どのような宗教なのか、ということが大きな意味を持つはずじゃないか、と思いました。当該教団が外集団で共有されている社会通念とどのくらい距離があるのか。子育て、しつけ、食事、学校生活への適応、期待する教育水準、恋愛や結婚、夫婦関係、親子関係、就業を含めた社会生活など、その教団の教えや世界観、推奨される生活実践が、社会通念とどのくらい同質性・連続性を有しているのか、あるいは逸脱しているのか。ここには、当該社会においてマジョリティの宗教なのか、マイノリティの宗教なのか、ということが大きく関わってくると思います。 たとえば、福音派の信仰を持っている人が、野球やサッカーなんかのスポーツクラブに入団したとします。試合前、地元の神社までランニングし、コーチから「ここは宗教のちがいは置いておいて、チームの勝利をお祈りしよう…」と提案されたとします。声をかける側は、特定の信仰を強制したり、価値観の押しつけをするつもりはないんです。悪気はないし、言ってみれば軽い気持ちです。しかし、そのやり取りで心に傷を負い、10年経っても20年経っても疼きを感じる人がいます。マジョリティの側は、なんでお前はそんなことにこだわるんだ?とか、ノリが悪いなぁ!とか、必勝祈願に宗教の違いとか関係ないだろ!とか、軽くイジったつもりでも、マイノリティの側は一種の踏み絵として大変な心理的葛藤を強いられた記憶になってるわけです。欧米では福音派はマイノリティってわけじゃありませんし、日本の当該教会が不健全というわけでもありません。しかし、日本社会で「よりよく生きるための資源」として必ずしも機能したわけではない。ストレスや疎外感の素因になっている。いわゆる宗教2世問題でクローズアップされた旧統一教会やエホバの証人など、もっとわかりやすい事例はあると思いますが。 「宗教性の涵養」という言葉が今回、使われてますが、「涵養」というのは、自然にムリなく育つイメージですね。気がついたら当たり前のものとして育っていた、という非自覚的な語感があります。マジョリティの宗教だった場合には、やっぱり親がつくる家庭の空気、とりわけ精神的に自立するティーンエイジャーになるまでの家庭内行事ですね。年忌法要でもいいですし、クリスマスでもいいですし、ラマダンでもお盆でも、食前の祈りでも、そういう家族の交流の場で宗教性は涵養される。また、神様はちゃんとあなたのことを見てるとか、いいことをしたら報われるとか、悪いことをすると必ず悪い結果が待っているとか、そういう考えやものの見方は親を介して入ってくる。宗教性の涵養は、そういう場とエージェントによって促進されると私は考えてますが、それがマジョリティの宗教とマイノリティの宗教では、受け入れられ方、抵抗感が違ってくると思うんです。 今日は、日蓮宗寺院、バプテスト教会、創価学会と3つの異なる事例のお話しがあり、猪瀬先生は、創価学会の他にエホバの証人などのご研究も並行して進められてるわけですが、宗教の違いが宗教性の涵養の促進要因になったり阻害要因になったりする問題について、どのようにお考えでしょうか。 3先生とも充実した発表で、いろんな角度からの議論があったので、ここで取りあげられなかった重要なご指摘も多々あったかと思います。不躾で雑ぱくな質問ばかりで恐縮ですが、簡単にレスポンスを頂ければありがたいです。非常に勉強させていただきました。ありがとうございました。
寺田先生ありがとうございます。では、中條先生からリプライという形でお願いしていいですか。
はい、わかりました。寺田先生、ありがとうございました。先生からいただいたコメントについて、一つずつお答えしたいと思います。まず初めに兼職のあり方についてご指摘があったと思います。特に人口減少地域で兼職していかなければお寺を維持できないという動きがありますけれども、それについて宗門が何か公務員とかの採用であるとか、あるいは教員の採用であるとか、そういったところに働きかけているかというと、働きかけていないのが現状です。少なくとも私たちの宗派ではそのような動きはありません。むしろ、私たちの宗派は修行することがやっぱり一番大事だということで、苦しくてもやり続ける、兼職せずお寺を守るんだということに、価値を置くような雰囲気があります。 二つ目のご質問なんですが、森岡清美先生などのご指摘も先行研究などもありますけれども、宗派性と村落社会構造との関わりということで、私も実はその辺には大変関心を持っていて、その辺のところを見出せたらいいなぁみたいなことは、いつも頭の中に置きながらやって研究をやっています。まさに寺田先生からご指摘いただいたところが、今回の私の関心の一つではあるんです。今回、事例として取り上げた広島の調査、あるいは能登の調査の地域は真宗地帯になります。特に広島なんかは安芸門徒と言われているように、浄土真宗本願寺派が非常に強いところなんですが、その中での日蓮宗寺院はマイノリティの宗派になります。非常にこれは対照的な形態というか実態になっています。日蓮宗寺院は無居住化している一方で、真宗寺院は専任住職や寺族がいて「寺カフェ」やったりして守ってらっしゃいます。非常にこうコントラストが明瞭なんですよね。浄土真宗では「化教(きょう)」システムがとられていて、自分の遠く離れた菩提寺も支えるし、自分の空間的に近接しているご近所のお寺さんも準檀家として支えていくシステムが取られています。それもだんだん崩れてきているというお話はよく伺うんですけれども、やはりそういったそのいろんな草の根のいわゆる自分とこのお寺を支える、地域社会に組み込まれた伝統的な地域システムでお寺を支えています。そういう地域システムがないので、日蓮宗では菩提寺としている檀家さんに寄生せざるを得ないので、ただでさえも檀家数が少ないところでお寺を支えているのに、なおかつ過疎という問題が重なって、子どもたちも都会に、遠方の東京とか大阪、広島へ出て行ってしまう。出ていってしまって、なかなか帰ってこない。老親が亡くなってしまったら、もうそのままお寺とのおつきあいは終わりになるというような状況で檀家が減っていきます。これはやはり、地域性と宗派性、それから大都市との地理的関係というのは、リンクしていると思います。これはリンクしていて、そのいわゆる今、地域社会の構造とマッチしているかどうかっていうのはやっぱり宗派、これまでの歴史性とすごく大きく関わってくると思います。
はい。続きまして、石橋先生お願いいたします。
寺田先生ありがとうございます。「教会は大丈夫か」ということで、心配をしていただいたことで、「たしかに大丈夫か」と心配にもなってしまいました。うちの教会の規模は全国でも大きな規模の教会に入るかと思いますが、同じ日本バプテストの連盟の多くの教会は30人前後が毎週の礼拝に来ているという規模で、多くの牧師たちが兼業しないと過ごしていけない状況にあります。僕自身も幼稚園の園長を兼任しています。前任の園長が定年だったということもあるのですが、うちの教会には二人牧師がおり、二人分のフルタイムの人件費の支払いは難しいこともあり、去年からそんな動きになりました。ただ、僕個人としては、牧師は兼業したらいいと思っています。僕自身も大学卒業してすぐに、世間のことも何もわからないまま牧師になったため、今教育関係でいろんな研修会に出させてもらいながら知らない世界を見せていただいていることは、とてもありがたいことだなと感じています。「献金をしっかりして支えてくれている人たちを大切につないでいかないと成り立たなくなるんじゃないか」というご指摘をいただき、それも全くその通りです。そういう意味で感じていることの一つは、日曜日に130人ほどが集まるうちの教会では、牧師が二人いても教会の人たち全員に、同じように関われるわけではないため、人生の終末期を迎えている人たちに対しての関わりには比重を置いているということです。きっとお坊さんと少し違うのは、牧師は病院にお見舞いに訪ねることがあまり不自然な形でなくできるため、その人の最期に寄り添って葬儀に至ることができます。そういうところでは、しっかりと教会員の方々のニーズに応えていくということをなそうとしていると感じています。ただ、今の現役世代は共働きがどんどん増えていることもあり、教会に日曜日に来るということ自体もなかなか難しくなってきています。ですから、献金を安定的にできるという人たちが、これから増えていき教会財政が安定していくということに関しては、確かに課題があります。そういう意味でも、これから献金収入がどんどん増えていくということを必死に求めようとすると、きっといびつな形の教会になっていくでしょうから、むしろ支出を減らしていく必要がある。牧師の兼業にはそんな意味合いもあり、それも含めて、これからの教会財政のあり方を、みんなで模索していきたいと教会の人たちとは話しています。同時に、そのために、「お金はなくても、自分たちの持っているものを持ち寄って一緒に働きを担っていこう」とも話しています。それからもう一つは、教会を支えてくれているのは、決して教会員だけではないということです。そのことを、コロナを通して本当に感じさせられてきました。教会の行ういろんなプロジェクトに対して、「教会の維持のために献金するつもりはないけれど、教会の活動には喜んで協力をしたい」とおっしゃってくださる地域の方々がたくさんおられるんです。そのような意味では、教会の将来に対して活路を見出しているところで、教会のこれからのあり方はそんな方向に変わっていくんじゃないかと感じています。ほかの教会でも、そんなことを取り組んでいる教会は増えています。僕の中での一つのキーワードとして「町の教会」になっていきたいっていうのがあります。お寺さんや神社さんと違って、教会は日本でマイノリティなので、そんなイメージを持つこと自体がなかったんですが、「町のお寺さん」とか「町の神社さん」のように、地域の人たちに頼られる存在として、「ここに教会あってよかったな」と皆さんが言ってくださるような存在になっていければとイメージしています。
ありがとうございました。とても面白いお話を特にいただいたなと思います。では続いて猪瀬先生からリプライいただいてよろしいですか。
ありがとうございます。子どもが日常的に接している宗教がマジョリティの宗教であるか、マイノリティの宗教であるかで宗教性の涵養という点で「順調に行く/行かない」という差があるのではないか、というご質問・ご指摘だったのかなと思います。その点で言うと、私がよく話を聞いてきたのは創価学会の方とか元エホバの証人の方が多いのですが、共通点として、線引きの仕方は違うけれども、自分たちの信仰、宗教は他の社会の信仰とは違う、自分たちの信仰が一番正しい、という観念が強い、排他性が強めの信仰の持ち方をしているところがあると思います。子どもの頃の受け止め方のお話を聞いていると、子どもさんによって全然違うし、子どもさんの置かれた環境によっても違うんですけども、宗教性の涵養という意味では、子ども時代に、「私たちはすごく特別ですごい信仰を持ってるんだ」と、子どもの頃は思っていた、というケースもあるわけです。でも、同時に、「周囲とは違う」とは受け止めている。これは、周囲との距離ができている、ということでもある。友達と同じことができない。先ほど寺田先生がおっしゃってたように信仰が違うから、このサッカーの試合には出られません、とか、鳥居がくぐれません、となる。そうなると、社会からも隔絶される排除を受けたと感じることもあるし、実際に「あなたはなぜそんなこともできないんだ」と周りの友達や学校教員に言われて、それがすごい傷つきとなる経験もある。その際には、育まれた「宗教性」といえるものが傷つけられもするわけです。さらにそこに宗教的規律を教え込むために体罰を用いるなど虐待的なことも入ってくるともっと複雑になってきます。なので、単純には言えない、というのが正直な気持ちです。マジョリティかマイノリティは一つの要素なんですけど、一人ひとりのことを考えると、異なる更なる複数の要素が絡んでいて、「こうだ」と単純化した言い方は言いにくいところなのかなと。つまりマイノリティであることは、涵養に役立つこともあれば、損なわれる傷つきになることもある。先ほどの話で、無宗教も一つの宗教的な態度で伝統であるといいましたが、無宗教だから宗教は関係ないわけじゃなくて、参照点として見ているという話とも関係するのかなと思います。教団や宗教者だけでなく、社会の側が宗教の取り扱いを変えていくことも必要かもしれない。社会も問われている。それこそ、宗教二世の話を少し距離をとって考えてみるために必要なことになるのかなと、寺田先生のコメントを伺いながら思ったところです。ありがとうございます。上手く説明できなくてすいません。
はい。ありがとうございます。寺田先生、今のそれぞれのリプライに対してのコメントだとかあれば、是非お願いします。
いや、過不足なく、聞きたいことを答えていただいたなと思います。納得しました。今日のシンポジウムはたくさんの方が参加してくださってます。2世信者研究の大先達であられる渡辺雅子先生もいらっしゃいますし。まずは、フロアの方のご意見とかご質問とか聞いてみたいな、と思ってます。ちょっと人数が多いですしオンラインですから、「挙手」はしにくいとは思うんですが。
そうですね。今、チャットで届いているご質問については、先ほど、猪瀬先生がご報告の中でも触れられていたかなと思います。ぜひ、お気軽にあのチャットの方にご質問いただければいいなと思います。私の方から少しちょっとだけ質問というか、コメントみたいなことしてもよろしいですか。私、すごく今回のご報告の中でインパクトがあった言葉いくつかあったんですけども。中條先生の中にあった寺族の寺離れっていう言葉は、これはかなりこう強烈なインパクトを持って聞かせていただいたところです。確かに、地域の寺離れ、あるいは墓じまいだとか、いろんなところでメディアで報じられてもいますけども、寺族が寺離れをしていくということ。これはどのような形でこれから課題として考えていかなきゃいけないのかなっていうものをちょっと感じたところで。特に、寺族が他就業化したというものを一つ大きな流れとして、ここ20年来の流れとしてあると思うんですね。かつては副業の話もありましたけども、お寺だけで生活できないときは、ご住職が平日お仕事に行って、寺族の方々が地域の人たちとの円滑なコミュニケーションをお寺で果たしていたと。でも、副業というものができなくなって、で、しかも彼女たち多くの場合、女性ですけども、優秀な方々が多いので、働きに出ていく。で、それによって、お寺の中で特にお寺出身じゃない寺族の人たちがお寺での生活の時間というものが、おそらく20年間の間で相対的に変化していく。そうすると、彼女や、彼女たちが育てていく次世代の子どもたちにとってもここは大きな変化をもたらし得るような変化の兆しなんじゃないのかなと思って聞かせていただいたところなんですね。これは私の研究とも関わってすごく関心があるところなんですけども、中條先生のこれまでの調査だとか、可能性だとか、どういった議論があるのかということを少し教えていただけますか。
はい。ありがとうございます。あの丹羽先生からのご指摘も大事なお話だろうと思います。まず、寺族の寺離れということなんですが、要するに檀家の人たちは引き続き住職がいなくなっても年中行事を自分たちで維持したりするんですが、寺族は住職が、自分の父親であり、夫であり、住職が死去していなくなってしまうと、寺族はお寺を退去してしまいます。住職の子どもが都会へ転出しているので、そこへ奥さんも出ていってしまいます。檀家は取り残されていて、寺族はもうお寺を残して退去してしまうというようなことを指して「寺族の寺離れ」という表現にさせていただいています。これは住職の、あの檀家の寺離れをもじった表現なんですけれども。 あともう一つ、丹羽先生から寺族の多就業化のコメントがありました。住職の兼職がかなり制約されている状況にあるので、そうなると、寺庭婦人の人たちが働かざるを得ないという状況が生まれます。ご指摘のとおり、ご住職は外へ法務に行ったり、お寺の仕事で出かけて行ったり、あるいは兼職でお勤めに出られることがあって、寺庭婦人たちがお寺を守ってきたというそういう側面があったんですけれども、それがうまくいかなくなってきているということです。要するに、日中家を、お寺を空けざるを得ない状況になってきているということになってますので、お寺の女性が外で働き始めるとそれをカバーする人もいなくなっちゃうわけですよね。今まであの誰かお寺に用事があって、檀家さんが行こうとしても、誰もいなくてお寺は無人になった、日中無人になっているというような状況が生まれてます。これは檀家のケアをする人がいなくなっているので、それは大きな問題になっているだろうと思います。お寺の子どもさんたちも、お父さんやお母さんの姿を見てお寺の仕事なども覚えてきたんですけれども、それがもう見る機会が、チャンスがなくなってしまっているので、これは後継者が育ちにくい環境にあることは私も感じております。
ありがとうございます。私の方で言葉の把握が自分の問題関心に引きずられてしまって失礼しました。石橋先生のお話の中で、最後に街の教会になりたいという言葉もありました。その地域の中で、これまでとはまた違った形で関わることで地域の人たちであったり、今回のテーマ「宗教性の涵養」だったり、地域性の中の宗教というものを考えていくというときにも、この、なんていうんですか、教会、お寺、神社というのは箱・ハードではなくて、そこに宗教者がいて、そこで日常的な交流があるからこそ育まれるものというものがきっとあるはずで、そういったところともすごくつながるようなお話なんじゃないのかなと思いながら、今伺っていたところです。石橋先生、あの、その点、何かご意見等ありますか。
ありがとうございます。ちょっと発表の中では、時間がなくなっちゃって、いろいろはしょったんですけど、コロナになって、一番大きな変化は、僕ら教会が、教会という箱から出ていくことになったことです。今まではその箱の中に来てもらうということが、宗教を営むということと捉えていましたが、自分たちが出ていくっていう発想がコロナ禍を通らされたことによって生まれました。僕が一番「街の教会」と実感するのは、雪かきをしたり氷を割ったりする時です。教会の前で雪かきや氷割をやっていると、地域の通りすがりの人たちといつも挨拶をします。その時間が一番「街の教会」であることを感じられるし、地域の方々とのやり取りもできます。通りがかかる子どもたちとも、毎日のように挨拶をするので、最初は「なんだこのおじさん」みたいな感じだったんですけど、だんだんとやり取りもできるようになりました。「教会っていうところが、入っていい場所だなんて思いもせずに通りすぎていたんだろうな」ということを、改めて感じるようになりました。入ってもらうより先に、こっちがちゃんと出会っていく。そして「あの人がいるところなら行ってみようとか」っていうふうに思ってもらえるっていうのがすごく大事だと感じます。発表の中でも少し紹介したお弁当のプロジェクトなどをしていますので、入ってきてくださると、教会の人たちとも出会ってくださる。そうすると、なんかいろんな人たちとのやり取りが、そこで生まれてくる。「最初は牧師と会ったんだけど、なんかそのうちに、いろんな人と出会うことになった」というようなことを、街の人たちが言ってくださる。そんなことを今、起こっていることを、少し希望に感じながら過ごしています。
ありがとうございます。その他何か先生方の方でこう話し足りないことなどがありましたらまだ時間ありますので、ぜひお願いいたします。
あの、カメラを開けられてる方がいるので。
はい。何でしょうか。
発言したいご希望があるんじゃないですか。
僕、皆さんと違って学者じゃなくて、市井の田舎のお寺の副住職です。皆さんのおっしゃってることって、社会的なことというか、世の中のことというか、結構大きいことですよね。僕はそういうことはしていなくて、宗派の執行部とか行政とかに関わっているわけではないので、大きなことは分からないですけども。今日参加したのは、そのシンポジウムのタイトルが、まさにこうなんていうのかな、世の中の困りごとというか、世の中から出てる本当タイムリーなテーマやなと思って参加しました。そもそも、どうなったら「涵養」になるのか。私も宗派の本山とか地方の研修会によく出るんですけども、よく教えを伝えるとかありますよね。学問でも実際にも、学ぶこととか。それが一体どういうことになるのかっていうのが、いまいちこうよくわからない。そういうビジョンっていうか。どういった人が学んだ人なのかとか。どういった人が教えを受けた人なのかっていうのがいまいちわからない。 僕もお寺で寺役といいまして、ご法事とかお通夜とかいわゆる葬祭ですね、そういうのに携わる中で、やっぱりすごい質問を受けるわけですよ。「神社とお寺、何が違うんだ」とか、「手を合わせるのは一緒だけど、何が違うんだ」とか、僕は檀家さんから質問されて。檀家さん自身がどうしたらその息子や孫世代にご法事とかお墓参りに行くとかっていうことを伝えられるんだろうかっていう、その相談を受けたわけでして。それで今、個人的に工夫しているのが、絵本を使ったりして伝えるとか。でも僕らの宗派とか宗教ってなってくると、自分たちのそのコアな部分、先ほどおっしゃってたように、マジョリティじゃなくマイノリティな部分のコアなことを宗教にしてるので、そっちばっかりに行く。そうするとだいたい檀家さんでも拒否られるわけですよ。私そんなの必要ないですみたいな。だから伝統宗教であっても、そもそも伝わらないわけですよね。だから、皆さんのところで、どういった工夫をされてるのかちょっと聞きたいなと思いまして。息子さんおらっしゃったら息子さんとか、親戚の人とか、周りの人とか。人に教えをどうやって伝えてるのかなと思って。えっと、その、マジョリティの部分もマイノリティの部分も。そういうのを聞きたいなと思って参加したんです。
そうしましたら、まず、日常的にお檀家さんとも触れてらっしゃる中條先生とかはいかがですか。
はい。ありがとうございます。なかなか難しいご質問だと思うんですけども。たぶんお寺さんはそれぞれ皆さん独自にいろいろ工夫、試行錯誤されてらっしゃるんだろうと思います。個別事例的になってくるんだろうと思うんですけれども、自分の実践としては、法事があるときには子どもさんやお孫さんなど、若い人たちをできるだけ連れてきてくださいっていうことはお話しするようにしています。できるだけお寺に来ていただくこと自体が大事なことだろうと感じているんですよ。私が静岡大学の学生と話をするんですけど、まず自分の宗派をしってますか、お墓がどこのお寺にあるか知ってますか、ということを聞きます。今、私、大学の教育学部で、なおかつ社会科の教員を養成するコースの教員をしているんですけれども、中学校の歴史で鎌倉仏教の単元があって、何々宗ってことは全部教科書に書かれてるんですけど、それらを彼らは教育実習のときに一生懸命勉強して、授業で組み立てるんですけど、わかってないんですよ。まず、自分たち宗旨はどこになっているか。例えば、浄土真宗の大谷派であるとか、私たちの日蓮宗であるとか。わかってないんですよね。だからそういったところから始めてかないと、学校の先生になってるような人たちでさえもわかってませんから、まずはお寺に来てもらう。そしてお寺って何をするところかっていうところから、やはり始めていかなきゃいけないと思っています。まずお寺に足を運んでもらう、足を向けてもらう、親御さんたちに働きかけるってところから始めています。お答えになっているかどうかわかりませんが、いかがでしょうか。
いやいや、本当に僕もそのとおりだと思います。僕もご法事とかで、お坊さん呼ぶ前に家族が集まらないとしょうがないって言ってるんですよ。だって、皆さんの身内や友人と今、お別れをしているわけなんで。お弔いするっていうのは。 僕らの仕事は、世の中の人から見たら商売ですよね。お寺も商売、サービス業だと思われてるんで。だから職業とかそういう運営面に関しては、それは呼んでもらうとか、お寺に来てもらうのはありがたいことですよ。けれども、まず皆さんがその場にいないとダメじゃないかって、私はそういうのは言います。厳しいようだけども。でも実際に、やっぱりこれからずっと関係を築いていくんだったら、そういうことの方が大事なんじゃないかと思って。僕らはどうしても信仰とか信条とか、そういうことをものすごく押しつけがち。でもまず、檀家さんや周りの人が一体何を欲してるのか、ですよね。別にそういう宗教的なこととか、先ほどからおっしゃっているような宗教性を涵養するとか、そういう難しい感じじゃなくて。僕のご門徒さんでも、あんたらが言ってるのはそんな難しいことじゃない、我々は先祖代々やってる、これは人間として大事なことやと思うからやってる、ただそれだけなんだって言ってるじいちゃんとかいて。そういう人たちと接する中で、こっちが逆に、市井の人たちの中で伝えられてきた宗教とか宗教性って何なのかっていうことも、僕は大事なんじゃないかなと思って活動してます。すいません。何か偉そうですけど。
はい。ありがとうございました。えっと、よろしいですかね。はい。他にご質問などありましたら。オーディエンスからでも大丈夫なんですけども。あの、なかなかないようでしたら、ちょっとまた、私の方から少し重要かなと思ったところをちょっとお話共有させていただきたいと思います。猪瀬先生のご報告の最後のところ、石橋先生のお話とも重なりますよね。往復するような形で。実際に人々は宗教教団とも関わって、ある意味では、戻って来れる場所として教団・宗教というものがある可能性もあるし。人のライフステージなどの中で反発をするような時もあるかもしれない。こういった、直線的ではない、実際の我々の宗教との関わり方だとか気持ちの持ち方というような、そういったモデルというものは大事だなと思いながらお話を聞かせていただきました。ちょっと最後のところになったので、もしあの猪瀬先生からまた補足等ありましたら、ここら辺もまたお話ししていただけますか。
そうですね。先ほどのどうやって檀家さんのその次の世代につないでいくのか、教会をどうやって支えていくかとかいう話とも関わるかもしれません。また、石橋先生が話されていた、教会は若者に楽しみを与える場所でもないし、困っている若者を支えて導くような場所でもないし(もちろん、教会はこれらの働きもなしうる場所なのですが)、じゃあ何の場所なのか、という話とも関係するかもしれません。でも、人は楽しみでもないと行ったり来たりはしない。いろんなライフステージを生きる人はずっと同じ状態じゃなくて、常に変わりながら人生を歩んでいるので、その間の必要な時に、適切な宗教と出会えるかどうか、ということかもしれません。宗教は建物ベースのものばかりではないと思うんですけど、教会とかお寺とか建物を持って構えて場を作っているタイプの宗教であれば、石橋先生が話されていたように、教会の前で雪かきとかお掃除とかするときに、そこを通り過ぎる人とのかかわりが生まれてきますよね。人はその前を通り過ぎることが大半かもしれないけれど、求めるときがあったときに、より深いかかわりを持てる機会があるといいのかなと思います。宗教は自分たちにとってより良く生きるための助けになるよね、といった感覚をもてるような。モデルがあるといいのかなとか、そんなことは考えてるんですけど。全然まとまらなくて申し訳ない。石橋先生にお話伺った方がいいと思います。
ちょっと割り込んじゃいます。ちょっと話が飛んじゃうかも知れませんが、やはり宗教者が宗教活動するときには、土台というか先立つものがあることが前提だと思うんですね。やっぱりお寺でも、副住職が自由に動けるお寺は開かれた寺院活動に取り組みやすい。『がんばれ仏教』などでも取りあげられた諸活動。檀家制度や葬式仏教を批判し、新しい取り組みをなされてる仏教者もいます。一方、メディアで取りあげられるような活動に意欲的に従事できる環境にない方もいる。寺院の体力というか、余力というか。宗教者もスーパーマンじゃないし、いろんな境遇の方がいます。現実的にできることとできないことがある。過疎地の寺院なんかは、伽藍を維持していくのに汲々茫々で、自分のお給料をつぎ込んで何とか維持してるってケースも少なくないと思います。大切だと思ってきた自坊の伝統。お葬式、年忌法要、檀家参り、そういうものを残していきたい、残さなければならないから、私生活や家庭をある意味擲ってお寺の仕事に従事してる、そういう方も少なくないんじゃないか、と思います。その辺の理解を拡げることも大切ですし、そういうことを視野に収めた上で、信仰継承の取り組みについて話ができればいいな、と思っていました。 一方、新宗教ですが、伝統宗教とはちがいます。もちろん、創価学会含め、職員の世襲化など既成仏教化してるという批判はあります。ただ、原点は、万人祭司主義。信徒自身が信仰の導き手となる。最初から教えに魅力を感じて信者になる人なんていないわけですから、常日頃から人によくしてあげて、背中で生き様を見せる。そうすると困ったこと、辛いこと、不安、自暴自棄に陥った時、たとえば私のように癌が発覚するとか、家族の病気、失職、離婚、事故、災害とか。若い人なら進路や失恋の悩み。人間っていつもうまく行くわけではない。必ずそういう苦難に遭うんです。そういう時に悩みを聴いたり、相談に乗ってあげたりする。そこで親身になって徹底的に寄り添う。世話してあげるんです。するとそのやさしさ、あたたかさ、人のよさ、人格に打たれて、どうして損得抜きによくしてくれるのだろう、ありがたいな、と感じて、じゃその方が薦める先生のお話を一緒に聴きに行ってみようか、とか、集会に参加しようか、とかなってくるわけです。癌になったとき、なんで自分だけが…とか、これから家族はどうなるんだろう…とか、お金の心配とか、色んな事を考えます。普段考えないことを考えざるを得ないんです。そういう時って何気ない言葉が刺さったり、心が大きく揺れたりします。そういうところから宗教への興味・関心が生まれてきます。導き手がきわめて大きな役割を果たすということです。先ほども言いましたが、パッと教えを聞いて宗教に入る人なんかいるわけないのであって、何かしらのフックというか、きっかけ、先ほど中條先生から、まずはお寺に来てもらうってお話がありましたが、お寺とか教会とか教団に来てもらって、そこで何かしらのつながり、ボンド(結びつき)みたいなものに触れてもらうことが重要です。涵養された宗教性を成長させるには、そういう場を維持し、そこにつなげる工夫が大切だと思っています。ちょっと質問になってなくて、すみません。
猪瀬先生が紹介してくださったゼミ生の方々の声を読ませてもらいながら、その中に「リーダーシップ」とか「強いリーダー」とか、そういう言葉が全然含まれていなくて、「共に生きていく」ということを、宗教への希望として感じておられるというのが、若いゼミ生の皆さんの声から感じられました。社会のSDGsなどの動きも含めて、若い人たちにとってのイメージは、だんだんそっちに行っていて、可能性みたいなのを宗教に期待してくださっているところはあるんじゃないかなと思いました。そして、そこにやっぱり世代間ギャップがあるんだと思うんです。そこら辺が切り替わっていかないと、若い人たちが寄りつかない。そういう組織になってしまっているということは、宗教性ということとは関係ないところで、組織として抱えている課題みたいなのも、きっとあると感じています。そして、それらは区別して考えたいとも思ってはいます。宗教としての大切にしていることはもちろんあるんですけど、自分たちも組織である限り、変わっていかなければ、若い人を受け入れていくことはできない。閉鎖的になってしまう性質をきちんと捉えて、開かれていくっていうことを考えないといけないなと感じます。そういう意味で、若い人たちの存在自体が、自分たちの組織にとって、どれだけありがたいことなのかということを、教会の人たちがどんな形で感じられるだろうかと。それは説明して分かってもらうというような話じゃないと思うので。うちの教会では、礼拝の説教の際には、必ず最初に子どもたちに向けてお話をするんですが、それは子どもたちに向けて子どもたちがわかるようにお話ししているフリをしているだけで、実際大人たちがものすごく聴いてるのは、その子どもたちへの話の部分なんです。子どもたちがいてくれることで、わかりやすく話を聞くことができるわけです。そんな風に若い人たちの存在そのものがありがたいことなんだと感じて、それを共有していける組織になっていければいいなという思いはあります。
ありがとうございました。今チャットの方で、また石橋先生にご質問が届いております。あの皆様、ご覧になれるかと思うんですけども。あの、青年会の方々が青年会のために考えることに疲れた、疎外を感じたというお話、エピソードの中で、その青年会の活動には大人、つまりその青年会に所属していない指導的な立場の方などは参加されていなかったのでしょうか、ということです。ご自身の調査研究も踏まえてのご質問ということになっています。石橋先生返答お願いできますか。
青年会にはまさに僕が担当としてずっとついていたんで、僕が指導的な立場でいないといけなかったのでしょうが、ただ彼の訴えとは、本質的な訴えだと僕は感じました。当時、青少年たちに教会の大人の側は、「あなたたちは好きにやっていいんだよ」という配慮することで、彼らが楽しんで教会に来続けることを担保しようとしていたわけですが、それを見事に見透かされたと感じました。そういう指摘として受け止めました。その後、それを言った本人も含めて、周りの仲間たちの何人かが教会の役員に選出をされて、教会の働きに直接コミットしていくことになっていったんです。“お客様扱い”みたいなことを若者にして、若者に来てもらうような関係性は、成り立っていかないと知らされました。そんな関係性のやり取りでは、若者が教会にしっかり根付いていったりとか、メンバーシップを感じていったりというようなことにはつながっていかないんだということを、この事例を通してすごく感じたことでした。
ありがとうございます。ご質問いただいた方はこれで大丈夫でしょうか。そうですよね。とても私も石橋先生のお話でここのエピソード、非常に印象深かったところで、オーディエンスの方々もそうだったんじゃないのかなと思います。次世代だとか、そういったものを急ぐことと、若者自身の気持ちといろんなところがこうぶつかり合うような場面というものは、そこはコンフリクトが起こるかもしれませんけども、そこに生じたコンフリクトこそ乗り越えるべき課題としてこうわかりやすく出てくるところでもあるのかなとも思います。時間もだんだん押してきておりますので、もし先生方、何か最後にありましたら、ぜひお願いいたします。あ、コメントもありがとうございます。あ、よかったです。ありがとうございます。
Bさんは、直接お話ししなくても大丈夫ですか。チャットに書いてくれましたけど。
こんにちは。Bです。私は天理教の研究をメインでやっているんですけれども、天理教ですとかなり若年層への指導方法というのは明文化されていて、本まで出ています。大人のコミットの仕方が明文化されているんです。そのような活動なのか、一教会の中でどのように運営していくか、という話なのか。特に、なんというか、そうですね、地域に根ざしているのかいないのかというところ。まあ、新宗教とそのキリスト教との違いなどもあるのかな、とお伺いさせていただきました。ありがとうございました。
Bさん、大変な時期にありがとうございます。とてもいい質問いただいたかなと思います。先生方、あの他に最後残り数分なんですけども、もし言い足りないことなどありましたら。大丈夫でしょうか。
さっきの青年たちのエピソードで、反面で、そうやって青年たちが集まれる場所を教会が用意していたことで、彼らは自分たちの取り組みの中で、自分たちの課題に気づいていったということは大きなことだったと感じています。現在はなかなかその場所を作ることができていません。一つは人材不足の問題で、僕自身もその時間をなかなか取れないでいます。当時は相当な時間を費やして青少年たちと過ごしていたので、そのやりとりの中で散々いろんな議論もできたわけですが、今はなかなかその時間が割けないので、どうしても薄いやり取りしかできない状況です。青少年たち自身もものすごく忙しく過ごしているので、なかなか集まって何かを一緒にするというようなことができないというようなこともあります。その辺りは、今本当に課題として感じている部分ではあります。
はい。ありがとうございました。では段々と締めの方に入っていこうかなとも思っています。今日はたくさんの方にご参加いただきまして誠にありがとうございます。この研究会のテーマ自体が、特に現場の方々からも非常に関心のあるテーマであったということを非常に肌で感じるような機会にもなったようにも思います。学術的な調査研究、海外の動向から、宗門の行っている調査、そしてあの現場で一体どのようなものが起きているのかという非常にリアルですごく説得力のあるお話まで、いろいろなお話が今回、聞かれたのじゃないのかなと思います。それぞれの参加された方々が持ち帰って、それぞれの場で、今回のシンポジウムの議論が生かされていくと大変ありがたいなと思います。あの初めての司会だったもので、なかなか不慣れで大変失礼してしまった場面もたくさんあったんですけども。先生方、本当にありがとうございました。ありがとうございます。 では、庭野理事長にお返ししたいかなと思います。ありがとうございました。
当財団の理事長の庭野と申します。本日はたくさんの方々に、このシンポジウムにご参加いただきありがとうございました。 ただ今はお三方の先生方に貴重なご発表をいただき、丹羽先生には司会を、そして、寺田先生にはコメントをいただきました。また、質問もいただき、大変有意義な時間を過ごさせていただきました。 今回のテーマは「若者の宗教性はどう涵養されるのか、されないのか。どこで、誰に。」でした。人間として生まれ成長していく中で、どこで自分の宗教心が養われ身に付いていくのかという課題は誰にでもあることだと思います。そういうところを、日蓮宗、キリスト教のバプテスト教会、そして新宗教の創価学会それぞれの事例を挙げ、示していただきました。 また、ご質問をいただきましたように、大きな枠組みではなく、実際のご自身の現場で起こっていることに意識を向ける視点もいただきました。その点からすると、それぞれの現場で起こっている出来事の集まりが今日のシンポジウムのテーマになっているのではないかと感じました。ですから、今日の三人の先生方の発表を、ご参加された皆様それぞれのご経験に、当てはめたり、反映されたりしながら考えていただけたとしたら、とても有意義なシンポジウムになったのではないかと思っております。 改めまして、ご登壇いただいた中條先生、石橋先生、猪瀬先生、そして司会やコメントをしていただいた丹羽先生、寺田先生には衷心より感謝申し上げます。そして、今日ご参加いただいた全ての皆様にも心より感謝を申し上げさせていただいて、理事長としての挨拶に代えさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。以上です。