報告 シンポジウム「家族と宗教」
2023.06.21
2022年度、社会調査に関連して「家族の変容」の宗教への影響を共通の問題意識として5回の研究会を実施し、そのまとめとして、研究会のメンバーを発表者とするシンポジウムを、令和5年3月27日、オンラインで開催しました。 はじめに、研究会の座長である石井研士氏(國學院大學教授)からシンポジウムの趣旨を説明。次いで、石井研士氏、丹羽宣子氏(中央学院大学非常勤講師)、問芝志保氏(東北大学大学院准教授)、寺田喜朗氏(大正大学教授)、鈴木岩弓氏(東北大学名誉教授)から、研究会での議論や実地の調査結果などを踏まえて、各自の視点から発表。そして、ディスカッション・質疑応答がありました。
このシンポジウムは、昨年の、地域社会と宗教を前提とした、二年度目のシンポジウムになります。地域社会と宗教の問題は、過疎化、限界集落の問題をはじめ、今、大きく変動している。その中で、宗教団体、我々日本人の宗教性が、どう変っているのか、変っていないのかということを、多くの研究者の方々に発表をしていただきました。今年度は、地域社会の中にある、家とか家族の問題ですね。今、家族は、地域社会から、密接にくっついていると言うよりは、離れつつあるように思います。家族の中で、一体、宗教がどのような様態にあるのかを考えてみたいということでシンポジウムを始めます。ただ、宗教と家族と言っても、問題の設定は多様でした。現在、盛んに問題になっている宗教2世のような問題もありますし、お墓とか葬儀のあり方の問題もあります。私はこのあと、年中行事、通過儀礼、儀礼文化の話をしたいと思っていますけれども、家族がだいぶ形を変えてきている。そういう中で、生活の中の宗教として存続してきた私たちの宗教性がどう変っていくかということを、私を含めた五人の先生方にお願いをして、お話をいただきたいと思っています。だいたい、一人30分で話をさせていただきます。話をする順番は、研究会で話をした順番のとおりです。それぞれの先生方のテーマ、切り口は違っておりますので、必ずしも激論になるようなことはないと思っているんですけども、またそれもいいかもしれませんが、どうぞ、お聞きいただければと思います。 それでは、一番バッターの石井の話から、お聞きいただければと思います。
戦後70年を過ぎて、日本の経済構造の変動を背景にして、日本の社会構造は大きく変化した。大きな変動は地域社会と家族の領域で生じた。戦後、伝統的とされる三世代世帯の割合はますます減少し、核家族が主たる「家庭」のあり方になっていく。その後、家族の構造は変化し、現在は単身世帯がもっとも多い世帯となっている。日本人の宗教性は、教団への加入ではなく、生活の中で年中行事や通過儀礼の形で維持されてきた。しかしながら近年の家族構造の変化によって、儀礼文化の変容が顕著になっている。調査によると、日本人が一般的に実施いている儀礼文化の実施率は、「未就学の児童のいる家庭」「夫婦のみの家庭」「単身者」の順で低くなっていく。単身者世帯は、大きく分けて20代・30代の未婚者である世帯と、高齢による単身者世帯に別れるが、 双方の単身世帯に儀礼離れが見られる。若年の単身者の間で「クリぼっち」を過ごす人が増え、高齢者の単身世帯で正月料理を作らない人が増えている。今後も単身者世帯が増加することが予想されており、儀礼文化の希薄化が予想される。
伝統仏教寺院の維持・運営には、家族が埋め込まれている。本報告では主に19年ぶり2回目となる「日蓮宗全女性教師アンケート報告書」で析出されたいくつかの論点を提示した。 今回のアンケート調査からは、教師になる女性の変化が明らかに見て取れる。具体的には在家出身の女性教師は減少し、代わって父・母が師僧である女性教師が17.4%から30.8%まで急増し、最大の層となった。日々の宗教活動を見てみると、教師の娘たちは管区行事への参加経験や宗門役職経験を得やすい傾向が認められる、一方で、教師として長いキャリアを有しているかどうかは役職経験に結びつかないことも見出された。さらに在家出身の女性教師は、役職経験や管区行事等への参加経験を積みにくいことも指摘できる。寺院出身者は親世代や地域の横のつながりという地盤を継承しているため、若手ほど女性教師団体への参加の意志を示さず、地域の青年会などに参加し、それらが経験を得るチャンネルと機能している。寺院出身か否かはその後の宗教活動の実践に大きな影響を及ぼしており、女性教師間のいわゆる「格差」が広がっていく可能性も指摘できる。
社会学者の森岡清美は1970年代に、日本社会における家の実質が失われれば先祖祭祀は衰退すると予測していた。それをふまえつつ、日本社会全体における、近世以降・近代・戦後・平成・令和にいたる墓の変化を歴史的に捉えると、社会格差(身分・貧富の差)による先祖祭祀の実施可能性の差異という視点の重要性が指摘できよう。もともと近世の身分制社会では、墓を中心とした先祖祭祀が実施できるのはごく一部の社会的上層に限られた。それが近代になると、先祖祭祀と墓の継承が広く励行され、一般化し始める。戦後の経済成長~バブル期になり、ようやく大多数の人が墓を買い、先祖祭祀を十全に行えるようになったのである。しかし平成期には、従来の墓や先祖祭祀の継続を望まない人が現れ、選択的になっていく。さらに令和の現在には再び社会格差が広がり、家族を持たず、墓を継承できない・先祖にならない人、は増えていくと予想される。発表者が神戸市の墓地で行った調査結果からも、先祖祭祀の維持継続のためには、経済的な余裕があり、かつ維持の意思があることが必要であることがわかった。今日の社会状況において、そのハードルは高いと言わざるをえない。
近代家族や先祖などの概念を手がかりとして昭和初期に創立された新宗教――PL教団・生長の家――の家族と女性に関する指導の特質を概括し、それがどのように推移したのか検討したい。PL教団・生長の家に共通する理想的な家族像は、愛情に基づく夫婦制家族=近代家族がデフォルトであり、立教当初は――農家の嫁としての生き方を相対化する――新時代に対応した斬新な考えだった。高度経済成長期、近代家族が大衆化することとパラレルに多くの新宗教は教勢拡大を遂げた。1980年代以降、女性の社会進出が進み、家族のあり方は大きく変化するが、PL教団と生長の家は一貫して家庭を重視する――夫や子どもに尽くす――教えを説き、女性の社会進出を批判的に捉える指導を行った。家族史的には特殊な形態である近代家族(性別役割分業)を日本の伝統的な家族のあり方だと錯覚した指導も見られた。家族(私的なセーフティ・ネット)をつくれない層が増加し、単身世帯が多数派となっている今日、家庭や家族の大切さを説く指導に加え、そこから漏れる層を包摂する教えが求められる。
21世紀を迎えて四半世紀近く経った現代日本では、民俗学者の柳田國男が残した宿題とも言うべき課題がその重要性を増しています。それは、イエ亡き時代の死者の扱いをいかに実現するかといった「家族と宗教」をめぐる問題です。戦前までの日本では、亡くなった先祖の面倒を見るのは子孫の役割とする考え方があり、先祖祭祀が盛んに行われていました。先祖というのは「自分の家で祭るのでなければ何処も他では祭る者のない人の霊」(柳田國男)ということで、その成立基盤には戦前の民法で規定されていたイエ制度がありました。 ところが戦後になると、イエは戦後民法から姿を消し、<制度としてのイエ>は終焉を迎えます。その後も戦前育ちの人々によってイエ意識は継続していたのですが、戦後78年を迎えた昨今では<意識としてのイエ>も希薄化しています。先祖祭祀を担って きたイエが消滅に向かう今日、イエに代わる死者に対応する新たな箍が模索されているのです。 本日の発表では、先祖祭祀に見られる「二・五人称の死者」としての先祖の立ち位置を考えつつ、近年の「永代供養墓」の展開に注目し、“想い”( ≒ we-feeling )醸成の永続はいかに可能かを考えてみることにします。
今日伺って、改めて思うのは、仏教寺院、仏教的な儀礼の在り方の変化と問題の大きさですね。1988年12月にNHKから放送された『寺が消える』も大変衝撃的でしたけれども、浄土真宗本願寺派は翌年すぐに過疎寺院対策を始めるんです。非常に西本願寺の対応は早かったと思います。一方で、過疎寺院対策と同時に、都市寺院の開教ですね、都市開教を始めることをいたします。必ずしも都市開教は大規模にうまくいっているわけではありませんが、それでも少しは地歩を築いているのではないかなというふうに思います。ただ西本願寺を見ても、築地本願寺に霊園ができるとか、従来とは違ったことを考えているように思えてなりません。新宗教はどうなんでしょうか。伝統的な、明治以降の伝統的な、特に戦後の家族を中心にした価値観から、やっぱり変えなくてはいけないという強い思いというのはあるんでしょうか。それとも、従来の家族観を守りながら、維持していこうというのでしょうか。信者が増えるか増えないかということと、教えの正しさとは別物だといつも思ってるんですが、時代に受け入れられていくということを考えると、やはり、多くの方々の期待に添わなくちゃいけないでしょうから。家族や個人の在り方、女性の役割も変わっている中で、教えは変わっていくのか、読み替えていくのかということは重要な視点だというふうに思いますね。寺田先生は、今日ご発表された新宗教団体以外に何かおっしゃっておきたい団体はありますか。
いや、30分で発表をまとめようと思うと、教団も時期も限定せざるを得ないので、今日のような内容になりました。やっぱり従来の家族観を守るというか、家庭を大事にするとか、家族を大切にするという教えは、オウムや統一教会のような例外を除いて、ほぼ全ての新宗教に共通しているものだと思います。これはすばらしい教えだし、戦後の日本人のモラルを下支えする部分があったと思っています。一方、国家としての設計図の修正、家族変動に即した税制改革、制度再編は不可避だと思うんですが、この20年間ぐらい足踏みして、問題を先送りしているような印象を抱いているんです。それがどのようなメカニズムでそうなっちゃってるのか、興味があります。客観的に見た時、日本は人口が減っていて、家族規模は縮小し、単身世帯が多数派になり、就職氷河期世代は未婚率が高く、晩婚化・少子化が進んでいる。少数派となっている標準家族を基礎単位とした制度設計は再考される状況にあるんじゃないか、と思ってます。しかし、そういうことについて、正面から論じる政治家は少ない印象です。どうしてなのか。日本会議だったり、保守的な政治家は、公的扶助を厚くすることに批判的なスタンスを取られる方が多いと思います。一方、新自由主義的な社会政策によって格差が広がることを肯定する意見の方は多くはないです。もちろん例外もいますが、保守も革新も関係なく、国民間の格差拡大には反対だと思います。新宗教の多くは、家族・家庭を大切にする教えを説いてきましたが、家族をつくれない、家族がいない人々の存在を放擲するわけにはいかない。それは、どこの教団も異論を唱える向きはないと思うんです。家族・家庭を大切にする教えと、自力でセーフティネットをつくれない、セーフティネットから漏れてしまっている人々をどうやってサポートするか。自力と他力の両輪をいかに走らせていくか、その工夫が今後の日本の課題であり、そういう現実・側面に光を当ててみんなで考える、ということが課題なのかな、と考えます。
従来の社会の価値観がなかなか変わりにくいのは、見ていても良く分かりますよね。また、そういうものを大事にしたいという方々が、今あまり大きな声を出しませんけれども、かなりいらっしゃるのも良く分かるんですよね。ですから、恐らく人口はまだまだ減っていくだろうし、急速に女性の活躍とか役割が転換するということも考えられないだろうと。恐らく日本はこのまま予測のとおり、人口は減少を続け、労働人口も少なくなり、多少子どもさんの生まれる数が増えたとしても、人口を維持できるような数ではないまま経過していくのかなと思います。ちょっと私は悲観的ですね。政府批判になるんでしょうか、30年遅いなあという感じがしてますね。女性の方々はこういう状況をどういうふうに思われますか。具体的な事例を調査、研究されていて。
どちらから話すかちょっと迷った感じですね、問芝先生。これは私の感覚ですけども、女性教師の方々だとか、寺庭夫人の方々とインタビューなんかをしていると、すごく共通する、自分が抱えている問題と共通するものが年々強くなってきているような気もします。家族というもの、あるいは、子育ても愛情を持って育てたい、そういうものがあった上で、だけども自分の仕事を続けるだとか、それをするには自分が頑張るだけではなくて、環境とかさまざまなものが許されないとできない。で、まあ、一般の仕事をしている方もそうですけれども、お寺の方というのは、自分で断念しちゃえばいいのかって言うとそれだけでもない。お檀家さんのお墓だったりお位牌とか自分が受け継いでいるからこれを何とか続けさせなきゃいけない。で、まあ、自分がそれで回ってきた役割として、子どもを育てながら、介護しながら、女性教師として、あるいは寺庭夫人としてやらなきゃいけないというときに、すごく日本社会の縮図というものをお寺の社会に見ているような気はすごくします。
ひじょうに具体的で問題の所在が目に浮かぶようです。問芝先生、いかがですか。
私は今39歳で、本当に石井先生、寺田先生のおっしゃるとおりの実感はあります。政府は今頃になって「異次元の少子化対策」などと打ち出していますが、遅すぎました。私の報告の中でも申し上げたように、この30年続いた低経済成長の間に、今の40歳代~50歳代前半の就職氷河期世代の方々は、まるっきり放っておかれたまま中年になってしまっています。この世代の方々は男性も女性も、本当にさまざまな問題を抱えていますが、私の感覚では正直、伝統教団にせよ、新宗教にせよ、今までの宗教の教えというものが、人々の支えになっているのか、求めている答えになっているかというと、どうもそうではないような気がしています。
女性研究者の方々はある意味当事者で、指摘がぐさぐさと刺さります。ありがとうございました。
石井先生、チャットにご質問が来ているようです。
はい。鈴木先生に伺おうと思っていたんですけども、質問があります、と。最後の「信仰縁」の説明の際、疑似家族的機能集団と記載されておりましたが、ここでの「機能」とは、どういう意味でしょうか、という質問がきております。先生には、まとめも含めてひと言ご解説いただければと思います。
「疑似家族的機能集団」は「疑似家族的な機能集団」と読めてしまいますので、少々分かり難い表現だったかなと思います。私としては、「疑似家族的機能をもった集団」と言ったつもりで、従来までの家族の機能の中には、we-feelingを醸し出すような形の人と人との結びつきが内包されていたわけですが、「信仰縁」においては、信仰を共有していることによりwe-feelingが醸し出されているのではないかという意味で、お話ししました。
つまり、we-feelingの醸成が、親族集団の一部の組織である従来の家族のもつ機能の一つとしてあるわけですが、同信集団としての「信仰縁」においても、その集団の紐帯を形づくっていく一つの要素として、共有する信仰が作用しているという、そういうつもりでした。疑似家族って言いますと、実際は家族では無いが家族のように見えるといった意味ですので、「疑似」の語ではちょっとズレるようにも思いますが。
疑似家族じゃなくて類似家族なのかな。類似家族的機能集団。
そうですね。だから、従来の意味での家族ではないのだけれども、家族の持っていた機能の人と人との繋がりをもった箍に対する言葉が欲しいということですね。私の話したかったのはそういうことでした。本日は、先祖祭祀の「先祖」という言葉はすごく便利だけれど、それを支えるイエが消滅してしまう時代になると、「先祖」に代わる「二・五人称の死者」に対する用語って何なんだろうかというお話しをしたわけですが、これと同様、従来までの「家族」の語も、現実社会の変化に応じて再考しなければならない時代になっているということだと思います。
皆さんありがとうございました。時間になりましたのでそろそろやめたいと思いますが、聞いていただいたように、今回のシンポジウム、何か結論が出るようなものではありません。むしろ、家族と宗教のあり方が非常に多様で、しかも極めて重要な問題だということが改めて分かったと思います。今回お集まりいただいた先生方は、自分の研究のテーマとして「家族と宗教」を高らかに上げてらっしゃる方々では必ずしもないのですね。それぞれ特定のテーマを持って研究をされている方々なんです。改めて「家族と宗教」というテーマを、もっと真剣に我々研究者は取り上げて考える必要があるのじゃないかというのが、一年間、研究会続けて感じた感想でございます。 ということでおしまいにして、事務局にお戻ししたいと思います。よろしくお願いいたします。
本日は、皆さま大変お忙しい中を、このシンポジウムにご参加いただきましてありがとうございました。また、このシンポジウムをコーディネートしていただきました石井先生、誠にありがとうございました。また、4名の先生方、多岐にわたってご発言いただきましたこと、心よりお礼申し上げます。 このシンポジウムに至るまでに5回ほど研究会ありまして、そこに私はオブザーバーとして先生方のお話を聞かせていただきました。宗教と家族という意味では、私も立正佼成会という新宗教の信者でありますが、家族を持った人間として、どう自分を見たらいいかということをいろいろと考えさせていただいたと思います。ふだんでは聞けない先生方のお話をたくさん聞かせていただいて楽しかったと同時に、先生方お一人おひとりが、先ほど石井先生が言われましたように、新宗教であったり、伝統仏教であったり、他の問題であったり、また永代供養墓であったり、いろんな分野で宗教と家族というものを大きな枠の中でどう捉えるかという視点をお教えいただいたように思います。 過去の5回の研究会では1回につき2時間でしたが、きょうのシンポジウムではそれを30分でまとめていただき、凝縮してご発表いただきました。きょうご参加された皆さんは、私からするとラッキーだったのではないかと思います。 ご発表は多岐にわたっておりましたので、すぐに理解できる範囲が限られていたかも知れません。財団としては、シンポジウムのまとめとして、石井先生はじめ、きょうご発表いただいた先生方にもご尽力いただいて、いい内容にまとめてホームページに載せていきたいと思いますので、どうかそれを楽しみにしていただければと思います。 皆さまきょうはお忙しい中を、このようにご参加いただきましたことに、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。